闇は其処彼処に転がっている

・・・じわりと感じつつも、言葉にしづらい・・・

人はどう思っているか分からない。でも、完全なる善も悪もないに等しいのではないだろうかと。一人の人間のなかにもそれは、比率のちがいこそあれ存在するものだから。

問題なのは、そのバランスを個々がいかにとっていくか・・・

おそらく個人単位ならば簡単にはいかないことが、集団になると恐ろしい様相を呈することがある。たとえば世論、大衆心理、メディアの力。

・・・気づいている人もいるだろう。何故かそうした大勢は良いことではなく、悪いことのほうに反応する。事実は渦中にあってあいまいなままうねりに引きずられていく。・・・自身が当事者ではなく、安全な圏内にいれば事実や理由はどうでもよく、一時的な攻撃のはけ口にしているにすぎない。それが証拠にある時期を境に、ぱったりと騒ぎはやんでしまう。まるで何事もなかったように。

忘れることができるから人間は生きていける。それも防衛本能のひとつだろう。

現実に恐怖をおぼえることが多くなったのもひとつであるが、ある作品を観てその想いは強くなった。・・・ただ、恐れるだけなら言葉にはしない。いまは対岸の火事のように思えても、誰のそばにも確実にそれはある。他人事などではない。本当にわずかの違いだと思っていい。

当事者となった人間には「忘れる」という単語は存在しない。永遠にあり続ける。

作品のなかで、『憶えていることのほうが大切なこと』といった主旨の発言がでてくる。・・・それがどんなに残酷な真実であっても。

自分の醜さや卑劣さは目をそむけたくなる、認めたくないこともある。けれど、そのことも見据えるしかないと自覚するときは必ずやってくるように思う。人は、それほど強い生き物ではないのだから。

忘れてはいけないこと、苦しくてつらくてたまらなくて忘れようとしてもできないことがある。その気持ちがたぶん、生きている証なんじゃないだろうかと。

結束をかためるのなら、責めることではなく何かを救うために動けたらと思っている。「救う」とまでいかなくても、きっかけをつくる、ほんのすこし手をさしのべることから始めて。

私もかつてそうだった。助けを求めることは弱いことで、やってはいけないことだと考えていた。でも、ひとりで背負えることには限界がある。身近なひとだからこそ迷惑をかけられないと耐えてしまうこともあるだろう・・・それなら、ほかへ目を向けてほしい。容易には見つからないかもしれないから根気は必要になる、けれど何処かにあなたが必要とするひとがいる、そして、あなたを必要としているひとがいる。

暗い場処をさまよってきたからできることがあなたにはある。

・・・そのことを忘れないで