気づけばそばに、本があった

いまも読書感想文を書く習慣はのこっているかな?

うーん・・・、読むにしても書くにしても入り口は肝心だね。好きな人はいいけど。
でも、時間がたってから変わることもあるから、あんまり(もし今、苦手だとしても)考えすぎなくていいとおもう。それに、そっちが好きになれなくてもちがう入り口がみつかること、あるんじゃないかな。

わたしも、いまだに得意だとは思わない。ただ、好きだからかかわってるんだね。
役に立つとか立たないとかで考えちゃうと、愉しめなくなっちゃうからつまんない。
じぶんの体験からすると、なんぼか役立ってる??って感じるの、ずいぶん後になってからが多いんだ。それと、何気なくやってたことのほうがじわーっと効いてきたり。

作文や日記キラいだったから、もうやだっ!!と思ったこと何度もある。
本も、むずかしいものが読めなかったからこれじゃあかんのかなって思ったし。
けど特別なことはしなかった。・・・なんかよくわかんないうちにあれ?って状況になってて。
たぶん、言葉は教科書読んで、辞書で調べて・・・そのあたりからだったし、耳から入ってくるものの影響も大きかった。両親、祖父母、近所のおじさん・おばさん・・・当時も相当古くさいといわれたけど時代劇も関係してたかな。

読むことや書くことが必要になるのはそれによって言葉を体得するから、なのです。
そこが基本になって意思の疎通が可能になる。

はじめは推薦本からでも良いのです。もしくは図書館で借りる、といった手段でも。
合う合わないはともかく、どちらにしても何かがのこっていくと思うのです。

活字を意識しはじめたのはごく最近、ですがわからないまでもいつしか本というものは生活の一部になっていたんですね。
ほとんどまともな(人間の?)生活とは思えない以前の仕事のときも、疲れてるんだから帰って寝ろよ、という内面の声をききつつ何故か書店に向かっていました。・・・で、コミックをばさっと買って速攻で読む、しかも夜中までかけて・・・翌日仕事だぞ!?おい(汗)
そんなこんなで買ってた本を振り返ると、銀色夏生さんの詩集やらメンタル関連のシリーズ本やらが占めてた感じです。いまはほとんど手元にはありませんが・・・そのときは必死だったんですね、ちょっと気を抜くとぶっ倒れそうだったから。

結果として心身ずたぼろになりましたがおそらく、そのころに読んでたものが自然に吸収されて形成されてた部分もあるような気がします。だからこそ、もっと深くかかわりたくなった。・・・それはわたしの場合、人とのかかわりにも似ています。

書店で、子どものころに読んだ本を見つけると感慨深いです。
そんなふうにゆるやかに。。。じぶんやまわりのひとと交流が保っていけるといいな。
もちろん、晴れの日ばかりでなく雨になったり嵐がきたりすることもあるだろうけど。

願わくばあなたにとっての大切な一冊とおなじように
素敵な出逢いがおとずれますように

*ゆずりは*