記憶 「創造」と「想起」の力

港千尋さんの本です。
はじめ、別の本を検索していたのですが、少し変わった視点の本のようだったのでこちらを読んでみました。

写真家、という認識でいましたが調べてみるといろんな評論もされていて。
その立場ならでは、ともいえるかもしれません。

ふつう『記憶』というと固定されたものと考えますが、この本を読んでいるうちにそんな生易しいものではないという意識に変わってきました。・・・まさに変貌をとげる、ものすごい働きのうえに『記憶』というものが構築(あるいは再構築)されている、と。

白い紙があるとします。・・・さて、そこに何かを描くとしたら、どうしますか?
たいていは描こうとするものを頭にイメージして、線を描いていくことと思います。
では、はっきりと描くものを決めなかったら?線ではなかったら描けませんか?
そうではないのです。たとえば、点の集合、しみ。・・・そこから浮かびあがるものもあるのです。見る人によって印象の変わる「だまし絵」のようなもの。
それもおそらくそれぞれの歩んできた人生の経験で大きく『記憶』が影響し、創りかえられていくのでしょう。

白地に黒、ではなく黒地に白抜き。
こうした反転や逆転の構造によってある種の思い込みから解放されることもある。
・・・だから『記憶』というものは侮ってはいけないのです。

実際に読まれたかたがどう感じるかは分かりませんし、私の言葉で伝えることにも限界がありますが・・・最近、新聞に寄稿してらした港千尋さんの言葉をうろ覚えですが解釈してみようと。
今は携帯でも簡単に写真が撮れる時代です。ビデオやカメラの性能もよくなり、気軽に誰もが撮影できます。これがフィルムを入れたり、ピントを合わせたりするのが必要であれば面倒でそれほど使うことはないでしょう。
楽しむために撮るのは良いと思います。でも、撮影対象にも当然のことながら配慮が必要です。撮影されるのをいやがる人もいれば、撮影が禁止されている場処もある。また、自分のことにかまけて周囲のことがみえなくなる撮影者もいます。
・・・危惧されていたのは、事件や事故の現場に居合わせて面白半分に撮影する人のこと。
カメラを向ける瞬間に考えてほしい、そのことをただの見物人のように眺めるのか、第三者に「何か」を本気で伝えるだけの覚悟をもって撮影にのぞむのか。

写真とは本来、『記憶』を補完し、記録として後生にのこし、伝えてゆくものだと考えられます。そのことで、あってはならないことを正したり、生きていくよすがとしたりするのだと。
撮影して、その瞬間で終わるものではないのです。
私自身は撮ることがうまくないのでめったにカメラはもたないのですが・・・
撮影にのぞむときはその重みを刻んで、手にしたいと思っています。
子どものころに初めて撮影した、あのときの純粋な想いを胸に

『感覚とはすでに記憶である』

ほのかに金木犀の香りがしています。
匂いから想起されるものも多くありますが・・・
あなたのなかには、どんな情景がひろがっていますか?