平行世界 ≪すがたはなくとも≫

実用化が可能かどうかはともかく、理論上ではタイムスリップやタイムワープは可能ということらしい。それは、SFとして小説やまんが、映像世界でも取り上げられてきたことだ。

想像するということは楽しい。もしかしたら現実に?と思うこともあるかもしれない。
けれどそれは、ほんとうに幸福なものなのかどうか・・・ふと、そんな思いがよぎることもある。

もちろん、科学者や研究者は基本的に幸福を目指してそこにたずさわっているのだと思う。実際、その進歩がもたらした恩恵は、はかりしれないものだろう。
ただそこに、影を落とすことがあるのも事実。避けられないものもあるかもしれないが、肝心なことはそれをどのように用いるのかを常に問題意識をもって取り組むことにあるのだと。

子どものころは、そうした架空の物語に思いをはせて、夢を託した。
現実ではないからよかったのかもしれない。
でも、とてつもなくつらいこともあったけれど、たしかに冷めた眼差しを向けていたけれど、日常もそんなに悪くはなかった、ともいまなら思える。
大人だからとか子供だからとかじゃない、むしろ今のほうが何かしらの恐怖をかかえて生きていかなければならない気がしている。

無論、安易に昔がよかったということではない。
いまだからこそ、と思える素晴らしいこともある。
ずっと忘れていた、大切なことを思い出している、自分はずいぶん早い時期から非科学的なことに関心をもっていたということを。いわゆるパラレルワールドと呼ばれるものや、存在のはっきりしない不思議な現象につよく惹かれていたことを。

・・・あるとき突然、自身の存在に疑問をもった。
言語であらわすには難儀だが、それまでとは大きく何かがちがう、という感覚が支配するようになっていった。・・・考えるのではなく感じる・・・ここにいる「私」は何なのだ?

時が過ぎ、違和感らしきものは影を潜めてきているが、完全にはぬぐえず、唐突に襲ってくる。
この次元がすべてか?みえているものが真実か?もし、ここでない世界があったなら?
みえないアンテナがどこかでつながっていたら?

いつも思っていたわけではないけれど・・・心の底に眠っていた何かが“覚醒”したのは、あの瞬間だったかもしれない。
ウルトラシリーズがもたらしたもの、私にとっての結晶が『君はそれ以上~出会い』(新風舎)だったのだ。
自分のしらない世界があって、そこにどんなものたちが棲んでいるか、どこかで自分をみているものが別次元にいたなら・・・そんな想いから生まれた物語。

昭和・平成のウルトラシリーズを知る人も知らない人も、なかには一度は考えたことがあるのではないだろうか?
『ほかの世界で生きている別の自分がいたら』

この世には、科学で、数値で証明できないものがある。
それは言葉ですべてがあらわせないことに似ている。
「ない」と思うか「ある」と思うか
心も移ろいやすく、かたちをとどめず、さまざまに色をかえてゆくけれど望みをすてずに祈りを捧げたい、私をまもり、つつんでくれているすべてに

“誰が欠けてもいいということはない”