落第生

・・・優等生になりたかった訳じゃない。「ふつう」でいたかった。
自分はそのつもりで過ごしてきた、・・・けれど。

「ふつう」って、何だ?

世間的にみれば私はすでに「ふつう」ではないのかもしれない。
敷かれたレールをはずれて、転がりはじめた自覚はあった。
ただ、あのときの自分にはそうするしかなく、無意識の自己防衛本能だったと
いまは思っている。

周囲には身勝手としか映らなかっただろう。
「常識」で考えれば当然、だから自分を責めさいなんだことも幾度もある。
こんな自分に何の価値があるのか、と

立ち止まり、うずくまり、殻にとじこもり、声もだせず、どうすることもできなくて

救うとか、癒すとか、なぐさめ・はげましではなく何の見返りもないのに
さりげなく「声をかける」ことをしてくれる、そんなひとの存在
・・・結果ではなく、私がそれまでにしてきたことをきちんと受けとめてもらえたありがたさ

そんななかで一進一退ではありながら、私は動くことがやっとでも
歩き続けることを選んでいた。

あるとき先輩がいった言葉
“きょうが10%、あしたが30%、あさってが70%でも次の日は0%かもしれない。
 だけど、一歩でも進もうとすることがだいじなんじゃないかな。たとえ、失敗したと
 してもね”
・・・そういった内容だったと。

かたちを変えて、私の背中を押してくれるひとが増えた。
少し前にあるかたが、そのひとの本の話をされていて思い出したのである。
作家の鷺沢萠さん。面識はないけれど、ぼんやりと印象にあったその名前が表面化したのは皮肉にも鷺沢さんの死の直前だった。

多くの本に接してはいない、でも、ばくぜんとした親しみが共感にいたるのに時間はかからなかった。叱られても呆れられてもいいから、話してみたかった。。。。。。

『F 落第生』のなかで、鷺沢さんは書いている。
「後ろをときどき振り返りながら、おずおずと、おっかなびっくりに歩いていっても構わない」
「強くなくても優しくなくてもカッコ悪くても構わない」
・・・これはそのまま私の心境であり、処女作になった『僕のたからもの』のラストの(わたしの)つぶやきにつながっているのだろうと。

立派でなくても、はなやかでなくても私はいま、生きている、生き延びている。
自分の意志で歩んでいる実感とともに。

「ちょっとずつでも歩くことを止めさえしなければ」、大丈夫
・・・鷺沢さんは、微笑って見つめているだろうか。