新・装幀談義

当初、別の本を予定していたのですが見てみると
「・・・こりゃ今の頭脳レベル(?)では無理があるかな・・・」
ということで。ひょいと視線を上げた先にあった本を手にしてみました。

「オモシロソウ」・・・レーダーに引っかかる(笑)

前にちょっと新聞のコラムの話をしたと思うんですが、本にかかわる者としては装幀のお仕事にも心が動くのであります。ちょうどコラム読んでたころ、探してみると自分の持ってる本にもそのお名前が。
・・・で、菊地信義さんのことを知りたいと思ったわけです。

この『新・装幀談義』(白水社)はたたずまいからして独特。視覚的にも「おや・・・?」となるし、感触がじわっときます。・・・手ざわりが、あたたかい。
もちろん、関心をもって見るのだからというのもありますが、どんなこと書かれてあるのかな?とわくわくしてきます。

読んでいてつくづく・・・職人技だ、と。
機械的・事務的な流れ作業のようではなく、細部に綿密に気持ちが注がれている。
それは膨大な資料から積み重ねられた知識・知恵・技量・技術などに裏打ちされているのだろう。
本の世界にふれたうえで、そこにふさわしい装いを思考する。
決して表層だけの問題ではないのだ。

私のように、文芸誌がらみで書いているのでもケータイ経由で書いているのでもなく、相応の業界で活躍して出版しているのではなくても、書く者としては嬉しい言葉がこの本には詰まっています。同時にそれは読み手としての姿勢にもかかってくることなんだけどね。

「読書」という形態もいろいろあっていい。少なくともまったく読まないよりは「読む」という意識があればずいぶん違ってくる。ただ・・・これはあくまでも自分の話ですが、私自身は紙の媒体がないと言葉として受けとめにくい・・・何か言語として入ってこないのです。おさまりがつかないというか、すとんと落ちてくれない。「読む」というより「見る」感覚なのかな。
心身のバランス欠いた状態から徐々に修復していく過程で、「書く」ことと「読む」ことで救われた部分が多いからよけいにそう感じるのかもしれません。

菊地さんも書かれていますが、一冊の本には多くの人の愛情がこめられている、と思うのです。
商業的に考えれば売れる・売れないの問題はあるけれど、売れさえすればそれでいいという考えが全面に出ているようなものはあまり作ってほしくない。・・・実質、本を生み出すことにはものすごいエネルギーが要る。「こんなんでいいや」になってしまうと読む人に対して失礼になりそうで。
・・・そう考えるとやはり、作り手のほうに愛情がないと話にならないという気がしてきます。

以前のようには動けなくなったけど、たまに本屋さんの空間にはいるとなんだか落ち着きます。そこでは本たちがひそやかに会話を交わしているようで。
時々こちらにもささやきが聴こえる。・・・そうしてまた、手にした本との間で対話がはじまる瞬間がたまらなく幸福に思えてくるのでした。

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なかなか本屋さんへ行けないのに読みたい本だけは増えていく。。。

いつもとちがった選定手法で「菊地信義さんが装幀を担当された本」として、一冊購入してみました。概要はつかんでからでしたが・・・めっぽう層が厚い(汗)

・・・大丈夫かー!?