蓮は泥の中で育ちながら、泥に染まらない

奈良 東大寺別当 北河原公敬さんの著書
『蓮は泥の中で育ちながら、泥に染まらない』

なぜか近年、蓮の花がとても気になるため、
新聞のある連載記事でこの本のことを知ったとき、
メモをとっておいた。

とはいえ、書かれたかたが雲の上のひとのように思えて
読んでも大丈夫だろうか・・・としばし。

先日ようやく本屋さんへ行く機会があったので。
相当うろうろしたのち発見、・・・別に検索機能使用しても
よかったんだけど、なんとなく自力で見つけてみようと・・・

そのおり、ほかの気になる著者さんも見つけ(笑)

よく見ると、すぐそばにあったのだ。しかも一冊。
・・・という訳で、これもご縁だと感じ、思うところを書いてみたい。

項目別でもいろいろ書きたいことはあるのだが、
なかでも宗教心に関して・・・教育との関連があるから
私の話ではうまく伝えられないかもしれない。
ただ、それは特定の宗派がどうとか、という問題ではなく、
心を養う意味での「情操教育」、というもの。

「世の中には尊ぶべきものがあって、侵してはならないもの、大切にしなくてはならないものがある。それには尊厳をもって接しないといけない」

そうした気持ちを自然と育てるような教育。
本当はかしこまってやることではなくて、生活に根ざしたところで
できていたときもあったのだと。
特別なことではなかったんですね。

ここで、長崎で起きた事件のことが出てきました。
小学6年の児童が同級生を切りつけて殺してしまった事件。
当時どこまで理解していたか私も記憶してなかったのですが、
このとき、加害者の子どもは亡くなった被害者について、
「生き返ったら、ごめんなさいと言って謝りたい」
と発言していたそうです。

生き返る・・・と思っている、それが現実に可能なら
どんなにいいか。
実際にはそれができるとすれば、虚構の世界で
語られるときのみ。

生と死について、よほどのことがないかぎり、ふだん考えることはないだろう。
まして身近で死を体感することがなくなってきている。

私が死を恐ろしく感じたのは印象がはっきりしているもので二度。
祖父と、小鳥の死に直面したときだと思う。
これも、その瞬間ではないので、そうならばもっと鮮烈なものだったかもしれない。

それでも・・・死ぬということが、現象が、途方もなくすべてを呑みこんで、時間も空間もその刹那、一気に崩壊した。

どうして、どうして?
笑っていたのに、話していたのに、
鳴いていたのに、元気にしていたのに、

・・・時間を、巻き戻して!!

どんなに願ってもそれがかなえられることはないと、身をもって
感じていかなければ死について理解をするのはむつかしいことだと思うけれど。

生きているということさえあたりまえに思っているから、
知らないこと、見えないものを想像してみたりもなかなかしないのでしょうね・・・

自分以外のものが視野に入らない。
つまり、他人は存在しないがごとく、世界がどうあろうとおかまいなし、な意識になってしまうとたいそう危険。

自分自身も含めてちゃんと心に留めておかなければいけないことがいっぱいあるのですが、本日はこれにて。

・・・たいていのことはやり直しがきく部分もありますが、
命はこの世でうしなわれたら、二度とやりなおしはできません。
そして、ひとつの命は多くの命に包まれ、たくさんの命に支えられて存在しています。そのことをおのおのが実感し、さまざまなかたちで伝えていかなくてはならないと思います・・・

天候が荒れてきているようです。
物理的にも身体的にも注意を要します。
病気やけがなどに、くれぐれもお気をつけくださいませ。

読んでいただき感謝いたします。


哲学・思想 ブログランキングへ