覚醒夢

いつかみた、風景
誰しもそんなものを有しているのかもしれない

夢と現の境界は何処?

意識の問題だと人はいうのだろう

でも、夢は決して真夜中にみる、
そして途方もないものを追いかけることのみではない

現実はたしかに息苦しい
けれど、私には夢と呼ばれる時間が恐ろしくなる
端境などないにひとしい、と思われて

痛み・苦しみ・悲しみ・・・
それらを含んでいてもやわらかく包む、
その術をおぼえはじめたから
現でのときを、おだやかに過ごしていける

ある人のことばにもある
『夢が現、現が夢』であると

歴史のいとなみにくらべれば
人の一生は一瞬

子どものころにこわかったもの、
大人になってこわくなるもの、
それは成長にともなって視野がひろがる
ということでもあるけれど
常識や分別にしばられすぎてみえなくなる、
隠されてしまうこともある、ということ

遠くに、・・・もしかしたら近くに、
存在する木々、樹木、森
おそろしさとなつかしさが交錯する空間
風の音をきくたびに感じる

其処は、どこ?

私をみつめていた大樹
いまはどんなふうに映るのか
わからないけれど

防衛本能、なのかな
きっと、ささやきかけていてくれた
深い森の奥から

その魂は人に姿を変えずっとそばに


『君はそれ以上~出逢い』(文芸社の生まれた背景を思うとき、風と森が浮かぶのです。
書こうとしてみたのではなく、みえたから書き留めておきたいと感じた。そこに景色と人々の物語があり・・・声がきこえたから。

いつのころからか漠然としていてつかめずにいたものがかすかに、ふれた、ふれる距離に近くなったとはっとした出来事。
そのひとつが一冊の本。
『古代ケルト 聖なる樹の教え』(実業之日本社

ささいなことかもしれないのですが、ながく“この感覚はなんだろう?”と問いかけていたことへのヒントになるのではと思っています。知りたいこと、まだまだある

杉原梨江子さん、ありがとうございます。

~楪 蒼朋より