なぜだろう

・・・かなり変則的に(ウチの習慣としては)、ドラマを観ている。
警察が介入しているものだからか、よく分からないのであるが、「おや?」と感じた。

以前からそういう傾向ありましたっけ?
本編中で人物紹介のテロップのようなものが出るんで。
人物名、肩書、相関関係のようなもの。

もちろんあればあったで、理解はしやすいのかもしれない。
でも・・・なんかそこまでやることもないような、気もして。
まあ、自分が近眼なんでテロップ読むのがしんどいのとその間に話進んでくから気が散るってのもあるんだけどね。

あとは老婆心ながら、アタマ使わなくならないか?ってこと。

警察がからんだ話を特に選んだつもりはないのだけど、・・・どこか自分としては日常に最も近い側面のことだと感じているのかもしれない。
事件・事故・自殺・失踪・・・・・・
ニュースで流される出来事は遠い話のように思えても、現実に当事者となる人が確実に存在するのであり、それはいつ自分に降りかかってくるか分からない。

観ているドラマはたしか「絶対零度」と「警視庁失踪人捜査課」、であったと思う。
(タイトル微妙に違ってたら御免なさい)
少なからずドラマというのは時代を反映していると思うのですが・・・この二作品もまさにそう。現実の上でも解決されていない事件は多く、最近、時効のことについて話題になっていましたね。一度動きが止まってしまうと解決の糸口を見つけるのは難しくなる・・・事件の直中にいる人にとってそれはどれほどのことなのか。
そうして、身近にいる誰かがある日こつぜんと姿を消す。生活環境などでそれが珍しいことではない人であればなおさら、気づくのが遅れて捜索困難になっていく。

人がひとり消える、ということの実感はあるだろうか?
あまり考えたことはない、けれど、話をきけば意外にごく間近でそうしたケースは起きている。また、ひとつ間違えばそうなっていたかもしれない、ということも。
自分を消してしまいたい、消えてしまいたいと思ったことがある人なら少し想像できるだろう。
それが事件になってしまうことも決して少なくはないのである。

ドラマだけの話なら問題はないかもしれない。ただ・・・哀しいことに、ドラマと類似の事件が起きる、それも放送とほぼ同じ時期に、ということも現実にあるようなのだ。
それほどに人間というのは複雑さも有する生き物、ともいえるのだろうが・・・確かに恐ろしさもある。ずるさも、むごさも、つめたさも。

でも・・・自分もそうだけど、それだけじゃないって、思いたいな。


「なぜ?」という問いかけはどんなときに浮かびますか?

分かりやすいことも、時に必要とは思います。ですが世界は分かりやすくはできていません。むしろ分かりにくい、いえ、分かっているつもりでそうではないことが多いのではないでしょうか。

あなたはじぶんのことをどのくらいわかっていますか?
家族のこと、わかっていますか?
友達・仲間・知人・・・どれほどのことを知っているのでしょうか?

親しさや近しさのなかでもながい時間があって、初めて気づくことがたくさんあります。
自分自身のこともそうです。
経験しないとわからないこともありますが、誰かにふれることで想像したり、似たような事柄を引き寄せることもできます。

平井堅さんの曲に“なぜだろう”というタイトルがあり、ふとそれを思い出しました。
人を好きになってしまうと自分でも考えなかったとんでもないことが起きてしまう、そうした想いを歌った(拡大解釈になりそうですが)ものなのですが、「はい」か「いいえ」かといった決まった答えだけを導き出せるものばかりではありません。それまでの人生になかったことが起こったら、当然どんな答えがでるのかなんて誰にもわかりません。
それでも、「なぜ?」を問いかけることを止めないでほしいのです。状況によって大きく変わることもあるし、時間が経っていろんなことがみえて出せる答えもある。
恋や愛にかぎったことではなく、友達のこと、大切な誰かのこと、自分のこと。

「なぜ、あんなことしたんだろう?」
「どうしてこんな気持ちになるんだろう?」

わからないことがあるのは不思議なことではないのです。
だから、自分も他者も、傷つけなくっていいんだよ。
私もぶきっちょで子供っぽいとこあるから、「わかんない~~、どうしようーー!!」って声あげて泣いちゃうこともしょっちゅう(笑)

すべては、“わかりたい”って心から始まるんじゃないかな。
かってにすきになっちゃってごめんなさい、なひともいるけど、そうしたひとにはたった一言しか伝えようのない、いっぱいの心があります。

うれしい、たのしい、“ありがとう”