名称や症例にとらわれず
見えないものを見ようする、想像してみる、「こういうことなのかな・・・」と意識を向けてみる、ということ、どのくらいありますか?
そんなに特殊なことではないのです。・・・たとえば、人の心、感情、思っていること・・・
これらは形としては見えないですよね。でも、体験としては誰もが日常もっていること。
そして気づくと思うのです。笑っていても心では泣いている、怒っている、怒っているように見えても泣いていることや、何かを訴えたくて必死になっていること・・・
自分自身も、大切なひとも。
心の病、という言葉が認知されるようになってどれくらいかな?
言葉ではひとことになってしまうけど、そこには無数のものが隠されているのだと思います。
お医者さんや研究をされるかた、というのは専門的な立場でそれらを検証します。まずはそこからです。それ自体はもちろん、重要。でも時として、その「立場」のみではどうにもならないこともある、ということを、真の意味で心得ておられるのかな、と患者の立場で思うことがあります。
患者は当然、専門知識がないことがふつうで、説明を受けても納得がいかないこともあるでしょう。そうして、専門分野であっても微妙に差異が生じるのも確か。扱いにくい患者に遭遇することもあるかもしれませんが、苦しみや痛みは、患者側からは決して偽りではないのです。知識の範囲をこえるものだとしても、それをありえないからと排除することはしないでほしい、と。
症例が少なく、ある種の病として認定されなかったり、逆に病名がついても症状の把握が追いつかなかったりすることもあるでしょうから、その辺は難しい部分も多いのでしょうね。
ちょっと話しづらくなってきたので、ひとつの記事を引用します。
『言葉だけでは伝わらない苦しみを、うつ病の人は体験している。気分が沈み込むといっても、普通の沈み込み方ではない。胸が締めつけられるような、いても立ってもいられない苦しみがそこにはある。疲れやすさも、並大抵のものではない。何でもない動きをしただけで、身動きできないほどの疲れが襲ってくる。しかし、それは主観的な体験でしかなく、数値で表すことができない。そこにうつ病の苦しさがあることを、多くの人に理解してほしい。』
(慶応義塾大学保健管理センター教授 大野 裕)
日経新聞の夕刊に掲載されているとある記事の一部です。
ここに書かれているのはうつ病のことですが、これは違う症例でもあてはまるものであると思います。
病気であったり障害であったり心身に負った深手であったり・・・
伝えたくても伝えられない、もしくはどうしても口に出来ない、話したくないことってありますよね。
経験のないことを理解することはできないかもしれない。
けれど、心を向ける、添わせることはできるのではないでしょうか。
感覚的なものから入ってしまうのは、仕方のない側面もあるけれど。
人ってどうしても形のあるもの、言葉として説明可能なものから入っていく。
誰かを見るとき、外側から、その人を取り巻く環境、評価、うわさ話・・・
手がかりとして、なら良いけれど、それだけでは分かるはずないですよね。
そうしたことも、同様に。
見えているもの、事象だけですべては判断できません。
一をみて十を知ったように考えることには強度の危うさが潜んでいます。
・・・いくつになっても知らないことはたくさんあるのです。
まずはきちんと、人をみること。
仮に家族や友人であっても知らないこと、わからないことっていっぱいでしょ?
だから、会ったばかりの人ならもっとわからなくてあたりまえです。
なかなかむつかしいけれど・・・いろんな手がかりをもとに、この人はどんな人かな?いま、何を思ってる?つらそうだけど、どうしたのかな?・・・少しずつ、歩み寄れたら。
いつもそうあることはないと思います。自分がしんどいときも、ありますから。
ただ、さいごは人と人。全部わかることはなくても、何かを感じることでお互いの間に心地よい風が通るようになったらまわりにもあったかさが伝わっていくんじゃないかな。
そうあったらいいな、と祈りつつ・・・
私もまだまだ、まだまだ。。。