「利他」 人は人のために生きる(二)
自分の命は自分のもの、
そう思っていた。
けれど、
自分は一人で生きていた訳じゃないと
知った時、
心に誰かを宿した時、
それは違うのかもしれないと感じた。
確かに、
生きること、生きていくことは
容易ではなく、
苦しさやつらさが多くあるものかもしれない。
それでも、
今ここに自分が「存在する」以上、
なんとしても生き抜かなくてはならぬ、
何かがそう教えようとしているのでは
ないだろうか・・・
*
*
「利他」 人は人のために生きる(小学館)
からの引用になりますが、瀬戸内寂聴さんの言葉
「自分や自分の家族が不幸になったり、会社や学校でつらいことがあったりするのは、大なり小なり誰でも経験することです。でも、それで他の人を憎んだり、世の中を恨んだりしたって始まりません。かえって、自分の心がどんどん真っ黒になっていって、心を映し出している顔も、どんどん醜くなっていきますよ。逆に、そこで他の人のことを思いやることができれば、自然といい笑顔になって、今度は自分を助けてくれる人が出てくるかもしれないでしょう?」
これを読んだとき、思い当たることがあったんです。
心が真っ黒になって、醜くなる・・・
もちろん、私自身、清廉潔白だなんて言えるほど人間できてませんから、
こらあかん、ってことも山ほどあります。
ただ・・・状態がひどいときの考え方っていうのは、
強烈に自分を責めるか、ぎりぎりのラインで
「何で分かってくれない・・・」
といったうらみつらみのようなものがある訳です。
そういうときの自分の顔、かなりコワかったかも・・・
すごく酷い顔してましたね。
でも、それだと自分も苦しいし、周囲もしんどいだけで、
まるっきり進展しない。
だから、何か「動く」ようにしないと駄目なんですね。
「言葉」とか「行動」とか・・・
摩擦のないように進められたらいちばんなのですが、
それはやってくうちに学べるかな?
とにかく、自分の内側だけに向いてる気持ちを
そうっと外側へ向けてみる。
いきなり人に向けるのがしんどいときは、
ぼんやり外を眺めるとか、鳥の声をきくとか。
となりの人の話し声、生活音、
子供の笑い声だったり、風の音だったり。
そうしてるうちにちょっと歩いてみようか、とか
本を読んでみようか、とか
動けるようになってきて、まわりの人のことも
みえてくると思うのです。
私は心身にストップがかかっちゃったとき、
ホントになんにもできなくなりました。
意識はちゃんとあるのに、自力でほとんど動けない。
「なんでー!?」ってひたすらショックで。
活字は追えない、映像も観てられない、
音楽も聴けない、食事もまともにできない。
眼を、開けてることさえ苦痛だったのです。
そんな状態からどうやって動けるようになったんだろう・・・
あんまり思い出せないのですが、
ものすごくゆるやかに何かが働いて、そこからは
少しずつ、文字を書こうとか、活字を読もうとか、
お経をあげようとか、そうしたとこから始めたように思います。
苦しみや悲しみの状況はそれぞれに違います。
取りうる手段もさまざまです。
でも、ひとつ感じること。
笑えないときもあるけれど、心から笑えなくても
鏡の前で「笑う」ふりでもだんだん気持ちはやわらぐのです。
「笑う」表情すると分かると思うのですが、
ほっぺの筋肉、けっこう上がるんですね。
そうすると顔全体の筋肉がふにゃっとなってきて、
かたくなってた心もやわらかくなってくるんです。
泣き笑いでもいいです、思いっきり泣いて、笑って。
「本気で泣ける人は必ず立ち直れる」
ってどっかで読みました。
すべてが一律に進んでいく訳ではないし、
進まないことに引け目を感じることもありません。
自分の速度でかまわない。
笑顔はまわりも明るくします。
しあわせにします。伝染します。
美輪明宏さんもおっしゃってましたね、
いつも笑顔でいる人のところには何かおもしろいことがありそう、
と人が寄ってくるのだとか・・・
そんなあったかい場処に、なってみませんか?
そうなれたらいいな ほほえみがいっぱいのせかいになったらすてきだな