いきるちから

声に出す、紙に書く、目で追う、指でなぞる、

手で文字に、かたちにしていく、細胞に、取り込んでいく、

何か伝えようとするけれど、この感覚をどういえば、こう、という言語、言葉が出てこない、

入ってくるのは文字だけではなく、映像だったり絵画だったり、もしくは音楽だったり、

・・・いずれにしても震災がもたらしたものに対して語ることが・・・どうすればいいだろうと途方に暮れ、立ち止まる。

自分自身にも震えがくる、揺れる、身体的なもの、精神的なもの、器(からだ)と魂(こころ)が離れてしまいそうになる、それを。
留めるために書くことが必要になる、何を書くか?

書物、新聞記事を手掛かりに・・・思うこと、考えること、感じること。
とある作家さんの言葉
「日本中にばくぜんとした不幸せ感がまん延している」
これは、震災以前の話。
・・・幸せに定義のようなものってある?
考え方しだいなのだろうけど、型にはまりたくない反面、どこか形のあるものを求める。
そうすると、多数派の原理、だったり華やかなモデルが気になる。

「もっと違った人生が・・・」

追い立てられるように、駆り立てられるように、そうして息切れを感じるようになる。
生きられる環境のはずなのに、自ら命を絶っていく人がいるのはその傾向と無縁ではない気がする。
でも、本当は・・・一人きりでかかえこんでしまわぬよう、「誰か」がいれば・・・

自身のことを考えたとき、そこにエネルギーがあれば気力もついてくるかもしれない。
これは被災したかたたちにもいえる。私もよく「考えるな」といわれた、時折、いわれる。
つまり考え始めると動きが止まってしまう、そのほうが次の一歩をためらわせる。
何も動きっぱなしが良いというのではない。できるかぎり、生活のなかの「ふつう」をなくさないこと。眠る、起きる、服をととのえる、見る、話す、聞く、食べる。

「とにかく生きる」

エネルギーが不足しているときには休むしかないこともある。それでも、人や事象、何かの刺激を受けることで体内の細胞が活発化してくる、そういうところから始めてもいい。

人間というのは自分が思っている以上に本能や五感が研ぎ澄まされてくるときがある。
最初はふわふわした感触があったとしても、時間を追って、どこかに意識が引っかかり、さわっている、地に足がつき、根をおろしていける。すぐには無理でも、・・・たとえば樹木を想像してほしい。記憶のなかに、そんな風景がないだろうか?
むろん、樹木とて、もとからその姿であったのではない。芽吹き、細々としたところから雨風にさらされ、嵐に遭い、雷にうたれる日々もありながらやがてしっかりと根をはり、大きな幹や太い枝を伸ばし、生い茂ったみどりをつくりだす。

人も、一輪の花であり、一本の樹であり、ひとつの星であると思う。
集まれば花の海となり、深い森となり、広大な宇宙となる。
すべてのはじまりは微小なものだけど、そこから多くの細胞で自らも形成されているのだから・・・時々、そのちからを借りることも必要かもしれない。


<追記>
募金情報
日本赤十字社
住友信託銀行 東京営業部(普)4150118
  口座名:日本赤十字社
三井住友銀行 銀座支店(普)8047670
  口座名:日本赤十字社
三菱東京UFJ銀行 東京公務部(普)0028706
  口座名:日本赤十字社
*ゆうちょ銀行 〇一九店(ゼロイチキュウ店)
  (当)0000507 金融機関コード 9900 店番 019

※基本は新聞からの情報ですが、検索により確認したものも含みます。
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