なごやかで幸福な2009年で~異質なものから学ぶこと

*あけましておめでとうございます*

楪(ゆずりは)です。
本年もよろしくお願い申し上げます。

皆様はどのような時間をおすごしでしょうか?

ふだんもそれほどテレビは観ないので、特別番組の多いこの時期もさして変わりはないのですが、小さな子どもがいる環境もたまに生じ、それによって気づかされることも少なくありません。
・・・何気なくみた作品で。不覚にも涙がこぼれそうになりました。
あたりまえのようであたりまえでない、子供と大人は違う・・・
そう言ってしまえばそれまでだけど。
「信じる」ということは、かくもむずかしいものなのだな、と

親子、きょうだい、夫婦、恋人、友人、仲間、主従関係・・・
つながりというものにはいろんなかたちがあります。
ある日気がつくとそばにいて、あたりまえになっていることもあれば
たまにしか会えなくても築いてゆける間柄もある
また、ものすごい葛藤ののちに生じる結びつきも
・・・ひとつ感じるのは、深くてながいつながりというのは時間をかけて形成されるものであるということ

それほどの時間があれば、双方にさまざまな感情が起きてくるのは自然なこと
わずかな行き違いで疑惑や疑念が発生することも、当然だと思います。
でも、すぐに忘れてしまえるものでなければそれは、放っておいてはいけないと思うのです。
多くは、きちんと話をすれば歩み寄れることなのではないかな。
無論そんなエネルギーを使いたくない場合もあるでしょう。
けれど本当に相手とのつながりを大切にしたければ表面をつくろうのではなく、素直に気持ちを伝えることを考えたほうがお互いのためになるような気がします。
そうしないといつまでも傷が癒えないまま、恨みや憎しみに変わってそこから動けなくなってしまうから。
仮に大喧嘩してそれでおしまいになっちゃったとしても、「やれることはやったんだ」と次へ進むことができるかもしれないし、時が経ってより良い関係になれることもあるかもしれない。

子供であれ大人であれ、絶対ということはないのだから「疑う」ことはごく自然なことです。
むしろそれは「信じる」ことの裏返しなのですからそれだけ相手を必要としていると考えたほうがいい。大切なのは、自分の想いを伝えると同時に相手の想いにも耳を傾けること。
・・・簡単ではなくても、感情的にならずに話すにはどうすればいいか、もし、そうなってしまったらどのように対処していったらいいか、とことん思案してみる。

自分と相手は同一ではありません。だから、全部を分かることは不可能です。
でも、知りたいと思い、少しずつ距離を縮めていくことは可能なのです。
一見まったく異なる考え、価値観、思想のように感じられてもどこかでつながることもあり得る、それをさっさと排除してしまうのはもったいない。それに、どうしても合わないのだとしても、そういう考え方もあるのか・・・と認識することは人としての幅を広げることにもなる。

私もそうだけど・・・「優しさ」や「想い」というのは、言葉だけでは分かりづらいし、気づきにくいことも多いんですね。それぞれにとらえかたが異なる訳ですし。
どうしても言葉で素直にいえなくて、まるっきり逆のことをしてしまうひともいる。
・・・それでもほんとうに嫌いでないのなら、態度や仕草のどこかに表情が隠れていることもあるかもしれないから・・・感覚を研ぎ澄ましてみることも、きっと大切。

「異質」である、という括りも実は危険なのかもしれない。
自分とは違う・・・理解できない・・・近寄らない・・・
私が「書く」という行為に重きを置くようになったのは、自身の内面にひそむものと対話が必要だと感じたからかもしれません。同時にそれは、他者との対話。
よくはわからないのですが、いつごろからか自分の立ってる場処がみんなとちがってる気がして置き去りにされたように思えた。それを物語に変換したときに生まれたのが『君はそれ以上~出会い』だったのだろうと。

こころは、みることができません。故に自分で気づかないうちに傷つけてしまうこともあります。最近になって思うことは・・・あまり「~でなければならない」と縛りをつくらないこと。
そして、何かが起きたときに恐れるばかりでなく展開してゆくことを信じ「~かもしれない」へ変換していくこと。
つらいこと、苦しいこと、悲しいこと、いろんなことがあるけれど・・・
ささやかなしあわせを感知できるこころを保ちながら、笑顔になれるときもあるといいですね。

楪 蒼朋