何処へ

・・・自分にとって大きな要素をもつものを考えていて、ふと浮かんだ・・・

音楽・映画・舞台・・・
そのどれも、ある程度時間枠のあるものと思われる。

対して書物はといえば、ページ数はあるものの、それを終えるためには各人がどのように向かうかによって動きが分かれていく。
うまく言えないのだが、受け手の働きかけは無論としても時間についての制約は、作り手が与えるものではない、という点で異なっているように感じている。
ほかの点でも決定的な違いがあるのだけれど・・・言語的に表現しにくいので「なんだろう?」と思われるかたは考えてみてほしい。

一冊の本を手にした人がその後どんな世界を体感することになるのかは、まさに千差万別ではないだろうか。
その本をきっかけに、同じジャンルの仕事をするとか、そこから知った別の分野に進んでゆくとか。考えてみれば、書物というのはある意味、先生のようなものだ。書いている人がどんな人であれ、自分とは異なる物事を体験している人である。それだけですでに「何か」を与えてもらっているといえる。たとえそれがはっきりと残るとは分からなくても。

本を手にしたら、次はどうするだろう?
著者に関心をもつ・著者の仕事をみる・人のつながりに着目する・・・
それによって、本から世界が広がってゆくのではないか?

本が、人を、世界をつなげていく

書き手になり読み手としての立場や想いも変わり、よりつよくそう感じるようになった。
・・・私の道のりはまだまだながいけれど。

最近、電子書籍にまつわる話題は多い。
時代の変遷でもあるから、あらがおうとは思わないけれど、私にはどうしても紙の本が必要であるという思いも大きく、・・・ひたすら存続を願うばかりだ。

そうした流れをくんで・・・一冊読み始めたのは『書物の変』(港千尋 著)

この本は印刷の歴史や文字の成り立ちなど、かなり細かい部分に話が及んでいる。
そうした記録媒体の今後・・・電子書籍のことも含むのだろうが、仮に百年後の未来に「現在」の痕跡はどのくらいのこっているのか?としよう。「過去」を読み解く素材があって、現在の歴史はある。しかし、その素材を読み解く技術がなければどうだろう?
つまり、「現在」を伝えるものをのこしたとして、そのデータを入れたものがきちんと「形として」存在しうるのかどうか。壊れる、劣化して読み解けないということはないのか?
…そんな悩ましいところも書いてある。

前にもこの著者の本にはあたっているが、当然ながら私のアタマで読み解ける、というものではない。いや、七転八倒しながら読んでいる、ともいえる。しかしながら・・・何故か読んでみたくなる著者のひとりのようだ。そうして、ここから広がろうとする世界を、じわりと肌で感じている。

一冊の本からアンテナがふれるのは一か所ではない。
故にそこから道を辿ってゆくと気の遠くなるような時間が必要だと思われる。
もちろん、すべてにあたるのは難しいだろうけど。

広大な宇宙に佇んでいるような感覚、もしくは
目前に深い森がある、そうした気配

『オレがこれから向かう場処は』

読み手であれ書き手であれそれは誰にもわからない、けれど、
はっきりしているのは、歩く道は自分で選ぶ、ということ

恐ろしくもあり、どこかで楽しんでもいる

近頃パソコンの環境を変えたため、さらに右往左往が激しくなった。
詳しい人ならたいした問題ではないだろうが・・・よくわからん、というのが感想。
もっともだからといって、動いている確率がそんなに上がるとは思わない。
私の場合は心身に及ぼす影響が強すぎる故だ。

それでも・・・ひとつ試みようとしたことがある。
どうなるかは不明だが、時間をかけて取り組みたいと思っている。

揺らぎながら・・・ひとつひとつ、たしかめるように歩む日々