淋しさを知っている人間だけが、
笑って生きる楽しさも知っている
*
ある作品に流れる言葉、ということで
ご存じのかたもおられるかもしれない。
書かれたのは鎌田敏夫さん。
コラムで取り上げてらした内容にふっと気になることが
あった。それは・・・ユーモアの精神、というもの。
アメリカ映画特有の、笑いを忘れない精神。
そこが大好きだというところから始まっている。
マニアックではなく、職業的なものでもないが、
私はどちらかといえば洋画が好きである。
・・・原語はとてもじゃないが追えないのだけど、
字幕を追うのがわりと好きだったり、たまにワンフレーズ
中身を聴きとれるのが面白かったり・・・
もしかすると、その小気味いいユーモアにふれられることも
要因のひとつかもしれない。
「ユーモアがないということは、病に一歩近づく」
このことは、いま最も実感できている気がする。
根っこがガチガチで融通が利きにくい性質は熟知しているが、
それがすべてであればおそらくここにはいまい。
意識せずとも抜けている部分はあり、特別なことをしなくても
いつしか人が笑っていることにも気付いた。
無意識に体得している抜きどころ、さらにそこには
自身のDNAもからんでいると思わざるをえない。
また、「ユーモアの精神は、辛い状況に遭遇した人間の
足掻きの中から生まれてくる」ことに照らせば
心身が壊れる寸前にまで陥ったことで、そこから這い上がる
ための必須条件としてこの精神(能力)が試され、
強固なものとなったとも考えられるだろう。
鎌田さんの話のなかでは動物生態学の研究家の言葉が
引用されているが、かなり話が大きくなってしまうので
ポイントを記すことにする。
つまり・・・
悲劇的人間が人間よりも格が上の存在を信じてそれがもたらす
運命、神々、道徳律などと戦うことに崇高さを見いだすのに対し
喜劇的人間は、人間は動物とさほどかわらなくてどんな状況でも
まず生き延びることを考える
↓
ここから考えると、人類が生き延びるためには喜劇的人間である
ことのほうが良いとされるようだ。
視点を変えるとこういうものが出てくる訳か・・・
思想や信仰、宗教などでいえば異なる意向もあるだろう。
けれど・・・極度な動きを回避するためにも生き延びる選択は
ありではないだろうか。
DNAのことは、鎌田さんご自身も書いていらしたが、
時折何かに行き詰まることがあったとき、両親であったり
祖父母であったりを思うことがある人は、意外と多いのでは
ないか。仮に、近すぎて駄目だとしても、身内のことが何もかも
分かっていると考えるのは早計であるし、自分を取り巻くのは
そこが全部とはいえない。
恐ろしいほどはるかな、先祖のことを忘れてはいけない。
その集大成である自分。
何が飛び出すかわからぬではないか。
自覚症状は悲観的でありつつ、両者の間を行きつ戻りつ。
生命維持のためにはひょろりと楽観的な妖怪が顔を出す。
そんな精神は、誰もが持っているのだと思う。
*
本気で泣けば本気で笑う
時には大声出して泣かにゃならん
思いきり笑う その日のために