「苦」と「楽」は表裏一体

台風の次は地震・・・みんな大丈夫だろうか・・・・・・

海の日、ときいてどんなことを考えるのでしょう。海から想起するもの・・・広さやあたたかさ、包まれるようなぬくもり、きびしさもあるけれど・・・そう、“母”の感じ。というより、自然のすべてがおとうさん、おかあさんなのかも。海~水とくると、母の胎内がうかんでくるようになったのはいつだったろう・・・はっきりとはさかのぼれないけれど。おだやかなきもちで、記憶をちょっぴりたどってみます。

大学受験で音楽のレッスンを受けることになったとき、諸事情である大学の、有名な先生に師事することになりました。すごく厳しいと話を聞いていて、お宅にうかがうたびものすごいプレッシャーを感じていたことを思い出します。意欲がたりない、技術もないことは自覚してましたが、毎回いやというほどそのことを思い知らされて、みじめな気持ちになっていきました。私のあとにレッスンを受けにきた友人が、見かねて一度「・・・だいじょうぶ?」と声をかけてくれたことがあります。たぶん、いまにも泣き出しそうな顔をしていたのでしょう。・・・そんなある日。「音楽という字は“音”を“楽”しむと書くでしょう。あなたの演奏は“音が苦”になっている」、先生の言葉を耳にしたときはショックでした。心理的にそうだったから、というだけでなく、ちゃんとそうしたささいなところにまで耳を傾けてくださっていることに対して大きな衝撃をうけたのでした。その後、劇的に変化したわけではなかったけれど、「いまのよかったわね」、「きれいに弾けている」、「いい音がでてる」、と聞き飛ばしてもおかしくないような小さな変化を、先生は喜んでくださいました。こころなしか、やわらかな表情で。

受験には失敗しましたが、最後のレッスンのとき、とてもさわやかな顔で先生が送り出してくださったことをおぼえています。試験はたしかに厳しいものだけど、“音”を“楽”しんでいらっしゃい、という主旨のことをいわれていたような・・・

技術面のみを強調されていたらあのとき、本当につぶれてただろうと思います。でも、それよりもっと大事なことがある、先生はそのことを伝えたかったのでしょう。・・・たしかにあの瞬間、わずかに何かをつかんだ、そんな気がしました。

教える、という大げさなことではなくても何か伝えられたら、伝えたい、その想いをわすれないように。音楽であれ、文章であれ、言葉であれ、どんなにつらい時間がながくても、そのさきにほんのりとみえてくる“あかり”があることを信じたい。いまあるのはそれだけです。