ことば 文字 の あいだ を たゆたう
言葉が あたりまえにありすぎて なんだか その
有難みが置き去りにされている気がして
何か違うのではと
通常 芸術とか 創造とかって言語をきいたとき
ことばや 文字を思い浮かべる人ってどのくらいだろう
話したり書いたりすることを 「つくる」とは
わざわざ位置付けてはいないかもしれない
そういう部分で 無意識に
言葉や文字について ないがしろにしてはいないかな
この前 新聞で 小椋佳さんのことばを見つけた
それを読んだときに 自分のなかでもやもやしていた
ものが つかえていた要因がなんだったかをぼんやり
かんじたような
小椋さんは 音楽や絵画などの表現が(最近は)大通りで
言葉や文章は裏通りだと話しておられた
さらに 言葉を失うということは考えなくなることだと
「人間は 言葉でものを考える
だから言葉を失うと 思考停止状態に陥ってしまう」
たとえば 絵画を鑑賞するとしても
ここにはこの色が と 色の名前を連想するだろうし
どういう画材かな と思えば必然としてその道具が
浮かぶよね
これが音楽であっても なんの楽器 といったこと
作曲者は誰であるか そうしたこともすべて言葉がもとで
ある程度は事象を認識している前提がある
識字率を考えなくてもいい時代になっているからそこまで
思わなくていいのだろうけれど 読み書きができない
その環境にない人が多かった時代のことを考えれば
読んで これは何 と物事を結びつけて そこから
これはこうなんだ と話したり書いたりして伝達できる
ということは 何にもまして 貴重なのだとおもうんだ
きちんとおもいをこめて 伝えられているだろうか
そのことば 自分自身の しっかりとした意味をのせて
生きたものとして発せられているだろうか
言葉は 放ったひとのいのちが宿ると 音が
波となって 場合によっては光に変わる それが
だれかを活かすことにつながることだってある
はじめから上手にできる訳じゃない
まねることから 学んで それを徐々に 自分のなかに
取り込んで 吸収して 昇華するところにまでもっていく
それらを 『振る舞い』というのだそうだ
『振り=真似』 『舞い』は自己表現の意味
自分なりの表現手法というか 出し方を模索していて
言葉 声 音 息 呼吸 色 文字 書
そのあたりのところであちこち漂流している
自身で書く 描く立場になってなおさら
小さな宇宙が気になりはじめ ことばの響き
意図するものが引っかかり
どうしても譲れない点や面ってあるんだよなあ
人にしてみればたいした問題ではなくても
どこかしっくりこない 調和していないという感覚
それはずっと 大切にしたい
〈ゆずりは書籍〉
『君はそれ以上~出逢い』 電子書籍について
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文芸社書籍情報 『君はそれ以上~出逢い』
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