聖人ではないから

いきものには寿命ってあるよね。
だから、みんないつかここからいなくなる。
「死」ってなんだろう?
それを漠然と知るのは、子供のころだろうか。
身近な動物や、近しい人をうしなうとき。
でも、自分のいのちを思うのは、もっと別なときだと思う。

ある時点までは他人事だと考えるよね。
生涯、実感できないこともあるんじゃないかな。
だけど思っているより近くにあるんだ、「死」というもの。
「自殺」って、痛々しかった。
それはいま、もっと刺すようなくるしみ、かなしみ。
決して他人事じゃないんだよ。
もちろん、その思いを知らなくてすむならそのほうがいい。
けれど確率は低いのだとしても誰かが・・・
何処かで命を落とし、また狭間でもがいているかもしれない。

自らの命を絶つのはいけないと、みんな知ってる。
はじめからそれを望んじゃいない。
ただ本人すら気づかないところで「何か」が大きくなって、
まわりにとっては突然にその日はやってくる。
ほんとうはさいごまで「生きたい」と叫びながら。

「痛い」とか「怖い」とかふつうなら、感覚があって、
容易にはふみきれない。そう感じる。
正常な判断をくだせるのなら誰も本当に死を選んだりしない。
思考は止まり、刺激すらわからなくなったら・・・
誰も、気にとめなくなったら。

様子がちがう、ということに、
本人も周囲も気づきにくいことはあるだろう。
でも、どんなに隠してもどこかに不自然な言動はみられる、という気はする。

できるだけのことをやろうとするのはわるいことじゃない。
だけど、すべてのことをしょいこんでしまうことはできないんだよ。
そうして、こんなことしたらいけない、言っちゃだめなんだ、としばりつけるのも。
だって人間ってそんなに立派じゃいられない、聖人ではいられないんだから。

病気でも事故でも、誰かが死んでしまったら、
「あのときそうしていれば」、「こんなことしなかったら」、と
のこされた人は思うんだ。責められることが何もなくても、
ほかに手立てがあったはず、と考える。
私自身、そしてまわりにもいろんなことがあって。
くるしくて、かなしくて、どうしようもなくて。
大切なものや大切なひとを傷つけて、壊してしまいそうでたまらない。
自分がどんどん暗くよどんでいくようでこわいんだよ。

かかえているくるしみやかなしみは、たやすくぬぐえるものではないと、
私なりに理解できます。どんなに、どれほど、どれだけ語っても、たりない、
どうしても誰にもいえないこともありますよね。。。。
自分自身にもわからない、もやのようなものが覆ってることも。
私も。。。何故だかわからないことがいっぱいあって、いいかわるいか一概に思えない。
ただわかるのは、自分が消えれば大切なひとのそばにはいられなくなる、
いなくなったら救えなかったと責めさいなむひとがのこされるという事実。

こんなにぼろぼろになっても想いが消えることはない。。。。
ごめんね、それでもすきなんだよ


音楽が、すきだったはずなのに、いつしか苦痛に思えたときがあった。
でもね、あなたがいたから。。。音楽に戻れた気もしてる。
わたしは言葉を綴るしか術がないけれど。

ほかとのかねあいがあるからたぶん、行けないでしょうが、
七月七日に奈良で、鈴木重子さんのライヴがあるようです。
“いのちのしらべ”。。。。
重子さんからも、いのちをもらった、と感じています。
もし、行かれるかたがいらしたら、感想などおきかせください。。。