人間の記憶というのはかなりあいまいな部分が多い。・・・というのも、正しく記憶されていないこともあれば、そうだと思っていることがほかと照らすと矛盾が生じたりするからだ。そうして無意識に、自分をまもる機能が働いていることもある。だから生きられるのかもしれない。
はっきりとしたものではないのに、感覚的にこの体験がある、とかあれっという感じとかが生じることはないだろうか。私は大きなものではないが、ひんぱんにある、という気がしている。・・・そのひとつ。
「解夏」という映画を観たときのこと。(原作はさだまさし氏)あるシーンに出ていた人のことが妙に引っかかっていた。おぼろげながらえーとえーとあの人!・・・と思い当たったのが鴻上尚史さん。(ちがっていたらすみません)・・・しかしながら、当時の私には鴻上さんとの接点はまったく思いつかず、どこかでみたのか??と問いかけてみても認識はなかった。そもそも私は人の顔をおぼえるのが苦手である。なのに何故だ?
ハテナだらけでありながら、その後も鴻上さんがらみの出来事が続出していたのだが、どうやらこの人の書かれるお芝居や本に、少なからず共鳴しているのだということに気づく。これもはっきりしたことはいえないのだが。・・・横たわっている何かが、ある。
そんなときに書店で発見したのが鴻上さんの『孤独と不安のレッスン』(大和書房)である。
役者を志す人や業界の人であれば鴻上さんの書かれた本はたいてい知っているだろう。けれど私はその関連ではない。・・・ただ、舞台というのは生身の人間がむきだしになる場だとこのごろ痛切に感じているひとりの人間である。つくりごとでありながらリアルがある、と言ってもいい。日常のなかではひたすら摩擦が起きぬよう神経をすりへらしながら生活せざるをえない、でもそれってホントに生きてるっていえるのか?・・・という疑問が大きくなりだしたころその世界に反応したのではないだろうか。
友だちや仲間は多くはなかった、それはいまも変わらないけれど孤立していたわけでもないし、誰かがいてくれた。孤独主義者でもない。無論、そのことで苦しんだこともあったし悩みもつきることはない。ただ、それは異常なこと、特殊なことではないと、この本では伝えてもらった。時折、ある種の誘惑にとらわれることがある。不安定なのはいまのほうが強いかもしれないが・・・不思議と以前にはなかった静けさも自分のなかにもたらされているように感じる。
実はついこの間、ホンモノの(つまり生の)鴻上さんにお目にかかる機会があった。といってもイベントの聴衆としてではあるが。このときあらためて“必要なものは必要なときにあらわれる”ということばを実感した。それから・・・自分がいい、好きだと感じたきもちを信じよう、と・・・
未熟だから、まだやれることがある。一生をかけてまもりたいものに気づくとき、人は自らのいのちのかがやきを知るのかもしれません。