たまたま、言葉の恐ろしさを、人間の悪意を見せつけられる出来事が続いた。
ネットの危険性を指摘する意見もよく聞きますが、それをつくりだしたのは人間だし、
群集心理をあおる、ということはいまに始まったことじゃない。
うわさ・流言・情報操作・・・それらによっていとも簡単に人はあやつられてしまう。
それは人間だからこその側面かもしれないけれど。
匿名性、なりすましはネット上でなくとも起こり得ます。
そのことによって事件に発展することも・・・
でも、そうした人や組織ばかりではありません。
たしかに人にはマイナスの感情もあるけど、100%じゃない。
そうしてみんながつよい訳でもない。
有能だとか無能だとか、肩書とか名誉とか、それだけで人は生きてるわけじゃない。
ほんとうにギリギリの境界で、揺れ動きながら生きてる人は多いと思います。
あしたが来ないかもしれないと震えながら過ごした日々。
わたしには絵も描けないし、曲もつくれない、歌うこともできない。
楽しませる技芸があるのでもない。・・・ただ。
書くことで話すことはできる、そして話を聞くことはできる。
言葉を綴ることで応えることは、可能。
強烈にその行為に駆り立てられたのは五感がまともに
働かなくなったからでした。
身体的外傷はないのにからだが動かない、動いてもふつうの生活ができない、
見た目にはきっとわかりません。
わたしにも何が起きているのかいまだにわからないのです。
そのために投げつけられた言葉でわたしはどんどん追いつめられ、
すべてが信じられなくなっていきました。
幸い、わたしには心のよりどころがあった、
・・・そのときは気づきもしなかったのですが。
言葉が全部、悪意にみちているとはかぎらない、励ましや助言、忠告のつもりで
話すこともあるでしょう。でも、それすら苦痛になる、傷つく人、または場合もあります。
わたしはじぶんから話しかける、というのが苦手なのでとっつきにくいと
思われているかもしれません。以前はその性分が恨めしかった。
五感がおかしくなってから気づいたのですが・・・言葉、というのは書き言葉、
または音声によるものだけではない、と
聴こえない声(おと)、すなわちあえて言葉として発さない沈黙や余白も含まれる
じぶんを想ってくれる、見つめてくれる気配だけでほっとする瞬間って
ありませんか?
表情や仕草にあたたかさを感じることはないですか?
あなたというひとが発する言葉だから素直にきける、ということも
あると思うのです。
つまりは、あなたの存在が言葉そのもの。
自信ってなかなかもてなくて、しかられたこともあります、・・・もちろん、
ある意味の愛情で。
そうして、友人や先輩がそばにいてくれるのは、わたしのことを
ちゃんと見ていてくれるから。
“そんなに小さくならなくっていいよ、わたしはわたしのまんまでいいんだよ”
欠点だらけで危なっかしくて未熟だけど、ネットや本を通じて知り合ったかたもたくさんだし、お会いできたかたもいます。これからできるかぎり逢いたい!と念じてるかたもいっぱい。
だから、言葉のもつ可能性をせばめたくない。
わたしの声を伝えるために、あなたの声に周波数をあわせるために、
言葉を紡いでいきたい。
あなたの宇宙(そら)に届くように。。。。