異界への入り口

ふつうとそうでないこと、日常と非日常の境界ってどこにあるんだろう?

たとえば、視る・聴く・話す、ができる場合、それは特別なことではないと思っている。けれど、五感になにかの障害が発生したならばそれは直ちに当然のことではなくなる。また、戦争や紛争の渦中にある地域ではそれが日常である。

時の流れのなかで、物事や人々は変化せざるをえないのかもしれない。そうであるならば、境界も常に変わる、あいまいなものであると思うのだけれど。

世の中には白黒つけられないことのほうが多い。そうでなければ生きてはゆけない。そもそも、絶対ということは、ないに等しいのではないだろうか。・・・もちろん、論議することは大事だし、いろんな説があっていい。でも、このごろ感じるのはなんでもかんでも二極化したがっている、もしくはやたらに区別をつけたがっている人が氾濫していること。勝ち負け、損得、明るいか暗いか、前向きか後ろ向きか・・・そうしたものだけで類型化できるなら、人間はごく少数しか必要ないことになる。それって変だよ、プログラムされたロボットじゃないんだから。

自分のこと、どのくらいわかってますか?知ろうとしてますか?・・・みえてないこと、たくさんあるんだよ。「自分」があるのは「他者」がいるからなんです。ひとりじゃなんにもみえてこない。私もたぶん、ほとんどわかっていません。ちょっとずつわかりかけてきたのかな?というところ。ずいぶんながいこと、みんなとちがう場処にまよいこんでる気がします。はじめはすごくこわかった。だけど、ひょっとしたらおなじようなひともいるかもしれない、いなくても、おなじじゃなくていい、そう感じはじめたとき少し気持ちがやわらいだ。そうすることで、他者を知りたい、わかりたいと感じて泣く自分を知りました。

みえない障害があるとしても、それはきっと私へのおくりものなんだな、といまは思ってます。どんなにしんどくてもそのおかげで私はこころをなくさずにすんだのだから・・・

あしたのことはわからない。でも、その扉をあける勇気をわすれずにいたい。