なまえで意識が変わる

 

自分のなまえ(本名)にしっくりきてなかった時季があります。

 

両親にゆかりのあるかたが命名くださったらしく、さまざまなことから

その名になった、いきさつを知ると有り難くはあったのですが。

 

きらいなのではなくて、・・・重すぎる、というか・・・

なまえが人をつくる側面があるとすると、どうも自分に合ってないんじゃないかって。

 

学生時代は特に(なまえの)意味合いが遠くて幼すぎじゃん!とかなり深刻に?

悩んでました(´・ω・`)

 

 

故に。

はやいうちからペンネームをと色々。

以前はイラスト描きやってたんで投稿時とか、オリキャラの名づけなんかで

使っていたものが主流でしたね、音で選んだり文字で組んだり。

 

ただいま通称で用いてるハンドルネームは筆名の「楪 蒼朋」(ゆずりは・そうほう)

から来ています。近しいひとや、ブログなどがきっかけでやりとりするようになった

かたにも好感をもってもらえてるみたいで・・・その点は活かせてるかな?

 

出版という大海原に漕ぎ出すことになり相応の心構えが必要と、

雅号をどうするか思案のしどころでした。

 

そこに至るまでにこころとからだに向き合ってきたせいか なんだか

 

ちっぽけなじぶん だけど自然の 宇宙の一部 なんだなぁって氣がして

 

ひとつになった魂から観えるものを描きたい

 

ふっとそう感じたら、「あお」・「植物」・「みず」ってイメージがどっかから

湧いたんですね。はじめに〈そうほう〉の音があらわれて蒼が浮かび。

しばらくしていくつかの貌をとりながら意図と合致する朋へ。

 

 

ゆずりは〉は、不思議と降ってきた感触、だったんです。

音というよりは声、だったのかもしれない、そうしてなぜか文字に、確信があった。

 

『譲葉』の表記もあるように生命の循環、輪廻といったキーワードも関連する楪。

 

うみやそら、もりに融けこむかのごとく、この世に生を享けた魂の自身としての名も

雅号がうまれたことに起因して浸透してきた感があります。

 

ふたつのなまえから観えるものを大切に。

 

 

視えないちからが 

 

音に 文字に

 

なまえに 宿る

 

 

本名の私を受けとめてくださるかた、ハンドルネームで呼びかけていただいている

方々へ、感謝しています。

 

 

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誰かの向こうに 自分自身が映ることが あるんだ

 

 

        『人間』(ひと)である以上、

          誰かに惹かれるのは

        ごく自然な感情なのかもしれない。

          『君はそれ以上~出会い』

 

 

 

 

 

 

お題「ハンドルネームの由来」

 

 

 

         かつて 樹木の精霊だったときがあったんだろうか 

 

 

                 そう憶う 刹那